麺声人語(徳島新聞経済サロン執筆原稿)
平成21年8月29日
経営者の資質
巷では選挙戦酣であるが、一時代前に比べて存在感や迫力、所謂政治家としての花のある候補者が減り、
軽量化しているように思えて仕方がない。
明治・大正世代が引退してしまったことも原因の一つであろうが、民主主義を拡大解釈し、政治家に対して
良き家庭人としての資質を求め、友達感覚で見るようになった風潮も大きな原因であろう。堅実で品行方正な
人間性は家庭人としては最高であろうが毒にも薬にもならないのでは政治家としての大きな仕事は期待薄で
ある。世界が違うのだ。
低俗な次元で恐縮だが、芸能界では某女優の覚醒剤事件で持切りだ。決して許されることではないが、善良
な家庭人が芸能界で花を咲かせることなど九分九厘なかろう。これも世界が違うのだ。
さて目を経営者の資質に転じてみよう。高度成長期の創業者のずば抜けた精神的肉体的バイタリティや、
高学歴二世の、出来ない理由を語る時に論理的かつ雄弁といった知識偏重の狭義の頭の良さだけで切り抜け
られるほど、今が生易しい時代でないことは明白だ。
ならば何が経営者の一次機能なのか。筆者の乏しいお付き合いの中からの観察に過ぎないが、好業績の
経営者には、二つの能力がずば抜けているように思えて仕方がない。
一つには人の良い点を褒めたがる癖がある。人を気持ち良くその気にさせる不思議な能力だ。
そして二つ目には、自社の存在意義と将来の自社の理想の姿を人に語る癖がある。たとえ、理想の姿と
現実に大きな乖離があっても。つまり人生観に基づく経営上の信念がクリアであると感じる。錦の御旗を立て
る能力である。使命感と言い換えてもよかろう。これは組織を一体化してベクトルを合わせるための必須の
能力である。
考えてみれば、経営者にとって、錦の御旗、使命感ということは原点であろう。環境の良かった時代は、
川の流れに乗るだけで、それなりの成績が上げられたのだろうが、今は違う。良き家庭人かどうかとは別にし
て、教祖的な使命感は必須であると信じる。ナンバー2以下の地位の人に必要な資質とは本質的に異なるの
だ。これもまた世界が違うのかもしれない。
2013-11-30 13:51:06
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平成21年6月27日
身の丈生活のすすめ
経済が急激に悪化して久しいが、高度成長期から数年前までの三十年間がむしろ異常だったのであり、
世界レベルで見れば、今の方が正常なのではなかろうか。
一部コメンテーターのデフォルメされた話に同化され、何でもかんでも、身の程知らずの生活水準の基準
を勝手に設定し、それが満たされない時には不平不満を感じ、全てを人のせいにする生活よりも、身の丈
に合った生活、分相応の生活を感謝しながらすることの方が、遥かに幸せな生活だとは考えられないだろ
うか。
企業経営においても急激な変化の時代には、十年前、いや五年前の成功要因は、再び成功要因にはなり
得ず、むしろ失敗要因とさえなる。過去の成功体験が大きいほど、逆に、変化への対応が遅れてしまうので
ある。
蛙を水の中に入れて徐々に温度を上げていくと脱出を試みることなく煮殺されてしまうが、急にお湯の中に
放り込むと慌てて逃げ出すらしい。つまり、穏やかな変化には対応できないが、急激な変化には対応できる、
ということである。
ならば、最近の急激な経済変化を、地球市民としての正常な生活水準に戻し身の丈にあった生活をする
チャンス、と捉えてはどうだろうか。勿論、最低限の生活さえ出来ない人々への公的支援の必要性や、生活者、
企業家の向上心を否定するつもりは毛頭ない。だが、例えば、余った時間を家庭で父親本来の役割を果たす
こと、あるいは地域社会との係りを大切にする生活等に振替えることも可能ではないか。
衣食足りても礼節を知らない生活は、飽食に起因する生活習慣病急増、使い捨て経済による環境破壊等、
大きな犠牲を強いてしまった。そして何よりも、かつて世界から一目置かれた日本的メンタリティーが喪失され
てしまったことは大損失である。モンスターピアレントやクレイマー、本質を突けず、あら探ししか能のないジャ
ーナリスト擬きの台頭などはその典型かもしれない。
経済の世界では失われた十年を取り戻そうと必死である。しかし、もっと大事な、失われた数十年を取り戻す
チャンスの到来だと考えたい。
(文)
2013-11-30 13:48:32
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平成21年4月25日
ブロック経済のすすめ
一年前まで、東京・名古屋中心に未曾有の好景気に沸いたらしい。その殆どが輸出関連だったため、
地方には全く実感はなく、昨秋以後は逆に地方から急激に沈んでいるとの感が強い。アメリカ一国頼み
の構造の脆さが露呈した格好だが、八十年前の世界恐慌からは何も学んでいない、と懐疑的にならざる
を得ない。
企業経営の大原則にリスク分散がある。例えば売上の依存度が特定の一社に偏ることなどは、一番に
回避すべきことである。こんなことは自明の理だったと思うのだが。
八十年前、持てる先進国はブロック経済で排他的経済圏を形成して自国経済を保護し、持たざる国は
植民地拡大に乗り出し、各地で軋轢を発生させ戦争へと進んでいった。
そこで提案である。緊急避難措置として、あくまで期間限定で、地方でのブロック経済を推進してはどう
であろうか。保護主義との謗りは甘んじて受けよう。しかし、基礎体力に劣る地方には、急性症状に対して、
漢方治療ではなく外科的手段が不可欠だと思うのだが。
例えば個人消費に係るブロック経済。県民は、県内企業の製品を、県内本社の店舗で優先購入する。
一次産品については地産地消を推進する。物流距離の関係でエコも実現でき、国の課題である自給率向上
のための農業振興の契機にもなる。中でも公務員は、アンケート調査する暇があったなら、率先して地元で
買い物をしよう。地元で飲もう、地元で食べよう。率先して市バスに乗ろう。
筆者はかかねがね、本県が経済植民地化されていることに危惧を抱いていたが、今こそ植民地脱却への
舵取りの絶好のチャンスである。行き過ぎた市場原理主義には期間限定での極端な反動的修正が必要では
なかろうか。
最後に面白いエピソードを一つ。樋口清之氏「秘密の日本史」によれば、明治二十二年、維新から鹿鳴館
時代までの極端な洋風化風潮への皮肉として馬鹿番付が出版された。その小結に、「輸出入の不平均を論
じて西洋料亭に懇親会を開く議員」というのがあるらしい。
以って他山の石とすべし。 (孝)
2013-11-30 13:45:14
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平成21年2月14日
農業コラボのすすめ
行き過ぎた市場原理主義が弾け、百年に一度と称する大不況を招いた結果、失業率が急上昇している。
アメリカ型大量生産大量消費に豊かさの価値を見出し、弱肉強食の自由競争を追求してきた結果がこうで
ある。確かに物質的豊かさは充分享受できたが、農業は衰退、自給率は先進国中最低となり、環境は破棄
され、伝統的な価値観、美徳等まで失いかかっている。
石油ショック、バブル崩壊等、何度も修正するチャンスはあったのに、アメリカ型経済価値観を金科玉条
とし、「消費は美徳、金さえあれば何でも買える」、という価値観を支配的にしてしまった。
四十数年前、筆者が小学生の頃、給食時には、作ってくれた農家の人々に感謝して、ありがたくいたただ
き、残したら申し訳ないという躾をしてもらった。高度成長の真っ只中の時代ではあったが、この頃には、誰
にでも親戚知己に必ず農家があり、そこで働く人の姿が身近にイメージできたために、心から感謝して食べ
させていただいた記憶がある。
ところが、身近に農家がない今、子供にとってイメージは難しく、感謝の心は育ち難い。逆に、金を出して
買っているのだから、感謝しろ、みたいな価値観が支配的になっている。こんなところからも伝統的美徳は
スポイルされていった。
今回の大不況は、天からの最終警鐘。今こそ農業復興をするチャンスである。第一次産業への就業を推進
すべきである。そうすれば、今、日本がかかえる大きな問題の二つ、自給率の向上、道徳観の滋養がともに
解決できる方向に向かうと思うのは筆者だけであろうか。
ただし、農業のみに自己完結の成果を求めるのは重労働、低所得等を考えた場合、無理がある。そこで、
製造業は地元生産者と契約栽培したものを原材料とする、小売業は地産地消を推進していく等、負担増は
我慢して農業が事業として成立できる協力を全県コラボで始めようではないか。時代もこんな商品と消費スタ
イルを求めている。百年の大計のために、ウイ・キャン・チェンジ。 (孝)
2013-11-30 13:18:06
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平成17年9月17日
守るべきもの
総選挙では自民圧勝となり、変えてはならないものから、変えなければならないものまで、ひとまとめ
に改革が推進するであろう。それには二つの理由がある。
一つは指導者の顔ぶれが変わりつつあることだ。かつて、日本は明治維新と戦後という二度の大改革
を経験してきた。現在も国難に直面していることは異論のないところであろうが、過去二回の大改革は、
それまでの指導者を社会的、時には生物的に表舞台から強制的に引退させた後、全く新しい指導者が
改革を断行した。
そう言えば、傾きかけた会社再建の秘訣の一つは、社長と上級管理者を、新しい人と総入れ替えする.
ことだとも言う。
もう一つは抵抗勢力への破壊攻撃である。巨大組織は、組織の本来の存立目的と乖離して、組織の
維持そのものが自己目的化してしまう。
堺屋太一氏は、著書で、組織の構成員が悪いとわかっていながら行う行為を腐敗と呼び、一方、正しい
と信じ込み、組織の存立目的と相反するけれども、組織維持のためだけに行う行為のことを頽廃と定義
した。
ともに組織を崩壊させる原因となるのだが、後者は正しいと信じているからこそ質が悪く、抵抗力は実
に凄まじい。末期の帝国陸海軍しかり、国鉄しかりであった。
話のスケールは小さくなるが、過日、百年以上続く老舗の六代目オーナーと話す機会があった。
この老舗は、時代の変遷とともに、コア事業を変更してきたと言う。意外にも本業一筋でないため、さらに
聞くと、「自分にとって守るべきものはオーナー家の発展継承であって、事業そのものではない。極論すれ
ば、事業はあくまで、その目的のための手段に過ぎぬ。」と言う。確かに徳島においても、阿波の藍商はコア
事業を藍そのものから、時代に合わせて変更しながら、二百年以上も、したたかに生き抜き、発展を続けて
いるではないか。自分にとっては、目からウロコであった。
巨大組織でもないのに守るべきものを守らず、時代に取り残されつつある事業の存続に異常な執着心を
持ち、コアを変更できずに、もがき苦しんでいる姿は、正に頽廃ではなかろうか。 (文)
2013-11-30 13:15:52
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平成17年7月16日
会社十年の大計
郵政改革法案が衆議院を通った。早速マスコミが内閣支持率の世論調査を発表したが、大きな
次元の意思決定、大げさに言えば国家百年の大計の評価が、即刻出来るのだろうか。また、即刻
の調査に意味があるのだろうか。一億総評論家と言われて久しいが、次元の異なる決定を十把一
からげで評価するのは望ましいことではないと思う。
次元の差と言う意味は、例えば会社で、飲み会の評価は即刻、翌日に出来ても、長期戦略の評価
は、一年後でも不可能なように、意思決定対象には歴然と次元の差が存在するということだ。また、
決定対象のみならず決定過程にも次元がある。例えば多数決で決めるのが望ましいことと、そうでな
いこととがある。
忘年会の会場の決定は多数決が望ましいだろうが、長期戦略を多数決で決める社長の辞表提出は
時間の問題であろう。
ところが、組織が大きくなるにつれて「皆で決めれば怖くない」式の民主主義がまかり通る。上場企業
の社長でさえ株主総会を切り抜けるための短期業績にしか関心のない人が少なからず存在し、無難な
評価で満足しているようだ。しかし、大きな次元の意思決定をした社長の評価は毀誉褒貶である。ソニー
のCEOのアメリカの某誌での一年毎の両極端な評価は記憶に新しいところである。
大きな意思決定の評価は何十年というスパンでされるべきであり、また独断的決定には必ず保証として
の責任が伴うことを銘記すべきだ。例えば、戦後日本の枠組みを決定した吉田茂の評価も、やっと出来る
頃でなかろうか。また、戦争の意思決定をした軍人、政治家は命で責任を取った。
現在は、政治家のみならず財界リーダーまでも、国士然とした迫力、存在感が稀有である。これは、他
次元のことを同時に評価しようとする世間の風潮、並びに意思決定の責任を合議制に押し付けようとする
リーダーの資質と無関係ではなかろう。
その点、中小企業のオーナー経営者は、志さえ高ければ、誰に阿ることなく、せめて十年の大計を決め
ることが出来るはずである。勿論命がけの責任を伴うが。
同士よ国士然と胸を張ろう。(文)
2013-11-30 13:12:18
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平成17年5月21日
脱植民地主義
最近、連続して夜の歓楽街に出向く機会があったが、人通りは疎らであった。歓楽街の人通りは、
景気指標の一つでもある。日本全体の景気は、やや上向きとは言うが、徳島に関しては景気回復の
実感は全くない。
この原因は多々あろうが、徳島の金が県外資本に吸い上げられていることもその一つであろう。
例えば食品取扱い店で繁盛しているのは、大型ショッピングセンターとコンビニくらいであるが、どちら
も本社は県外であるケースが目立つ。この事実は、そこで使われた金が、徳島を潤すことなしに県外
に流れてしまうことを意味している。公共工事も、かなり大きな部分を、東京本社の大手ゼネコンが
受注し、徳島に落ちる金額は決して多くないらしい。そして県外資本が徳島から金を吸い上げていく
傾向は益々強くなっているように感じる。このままいけば徳島は植民地である。
そこで提案である。例えば小売業であるなら、品質に有意な差がない限り、地元資本から優先的に
仕入れ、また消費者も優先的にこれを購入するという広義の「地産地消」運動を起こしてはどうだろう
か。小売業で考えれば、徳島の仕入先の従業員の多くは、自店の顧客でもある。仕入先を潤すことで
自店の繁盛につながる。逆に県外仕入先の従業員が自店の顧客になる可能性は低かろう。メーカー
も小売業ほどダイレクトではないにせよ、原材料を県内から優先的に仕入れることで、廻りまわって
自社の繁栄につながるはずである。公共工事も地元資本への優先発注で徳島経済への貢献にダイ
レクトに直結する。
勿論、県内企業の提供する商品やサービスが県外のそれと比べ勝らずとも、決して劣らないことが
地産地消運動の最低の前提条件ではあるが。
ただし、この運動は、一歩間違うと排他的ナショナリズムとなり、企業努力を疎かにして長期的な競争
力を低下させてしまう危険性はある。だが、県外資本に徳島から金を吸い上げられ悔しいと感じるのは
自然な県民感情だとも思う。まずは隗より始めよである。(孝)
2013-11-30 13:09:20
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平成17年3月19日
二極化社会
ライブドア対フジテレビの戦いが一段落した。「アメリカナイズされた新価値観」対「伝統的守旧的
価値観」の衝突を、どちらの考えが云々というつもりは毛頭ないが、両極端な価値観の代理戦争で
あるということだけは言わせてもらおう。
戦後六十年、機会平等ではなく結果平等の民主主義が習い性となった日本人は、平均的かつ中間
的な位置に、自らの居心地の良いところを見つけ、極端な個性や独自性の発揮を避けてきた。因み
に日本人の平均身長は、同一民族であるため、平均値が最頻値という典型的な正規分布を示す。
しかし、アメリカでは事情が異なる。平均身長百八十センチは決して最頻値ではない。ゲルマン系の
百九十センチを中心とする集団と、アジア系の百七十センチを中心とする集団に、二極化して平均が
百八十センチとなっている。肉体的平均の意味が日本とは異なる多民族社会では、個性と独自性発揮
にこそ、居心地の良い位置を見つける価値観が当り前なのは自然の理とも言えよう。換言すれば二極
の社会は当然なのかもしれない。結果としての貧富の差もしかりであろう。
筆者は、アメリカ流通業セミナーに参加した十数年前、現地の普通の生活者の家庭を訪問した。普通
の家庭でプール付き、メイド付には驚嘆した。一方、ダウンタウンにはホームレスが溢れていた。その時、
心底思ったことは、力のある者はアメリカに生まれた方が幸せかもしれないが、平均的な力しかない自分
は日本に生まれて本当によかったということであった。
それから十数年、日本も、確実に二極化への道を走り始めた。東京と地方の活力の格差、企業業績に
おける勝ち組と負け組の差、新聞発表の各社のボーナスの平均も意味が薄れた。この二極化がどの程度
の段階で止まるのかは分からない。ただ、変えるべきことを変えずに、変えてはならないことを変えてしまっ
ていると感じ、近い将来の精神的ホームレスへの危惧を抱くのは筆者だけだろうか。「降る雨や昭和は遠く
なりにけり。」 (孝)
2013-11-30 13:06:55
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平成17年1月15日
ピンチはチャンス
元旦のある記事を見て愕然とした。木沢村では昨年一年間に子供がひとりも生まれなかったらしい。
少子高齢社会の到来は認識していたが、県内自治体で現実に出生ゼロが起こったことにショックを禁
じえなかった。
また、筆者は忘年会で夜の繁華街に出る際、早めに出かけて周辺商店街等での街角ウオッチング
を習慣にしているのだが、昨年末には、筆者が徳島の夜の街にデビューした頃(僅か二十年前)に比
べて、歩いている人の数が半分以下に減ってしまったと感じた。これは不況の影響もさることながら、
その頃、酒席で大活躍していた世代の高齢化による出没頻度低下、その後継世代の価値観変化に
よる旧来の繁華街での絶対数減少という人口問題の影響が大きいと思う。
これは若者が減り、老人ばかりが増える近未来社会の先行指標とも言えよう。某調査によれば二十五
年後、県人口は十七パーセント減の六十八万人になり、その内の生産年齢人口は、現在の六十三パー
セントから五十七パーセントにまで落ち込む。この予測は、労働力不足のみならず、徳島の個人消費を
確実に縮小させることをも意味する。筆者の属している食品業界から見れば、徳島県市場は、胃袋の
絶対数は減り、しかも高齢化で胃袋のキャパシティも小さくなるという二重苦市場と予測されるのである。
しかし、経営戦略の本質が環境適合であることを考えれば、この変化は、新たな市場機会の誕生かも
しれない。それは、量的価値から質的価値への転換である。トヨタ自動車は、人口構成の変化に対して
「小さな高級車開発」との社長号令をかけたという。食品で言えば、「従来品よりも確実に美味しく、トレサ
ビリティも安心、健康にもプラス、そして量目は少なめ、でも価格はちょっぴり高めかもしれない」、こんな類
の商品のニーズが確実に高まるように感じる。
考え方を変えれば、環境変化は大きなチャンスの到来でもある。新年にあたり、ピンチはチャンスとポジ
ティブに捉えたいものである。 (文)
2013-11-30 13:04:18
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平成16年11月20日
情報化とリーダー
複数のIT企業がプロ野球経営に名乗りをあげた。従来、球団経営は、鉄道会社か新聞社と相場
が決まっていた。そんな伝統的大企業に、新興のIT企業が伍しだしたことには驚嘆した。逆に言えば、
それほど情報という無形のものが、昔より価値を持つ時代になったという証左であろう。
かつて、軍隊、企業等、戦う組織では、情報を、第一に早く得ること、第二に多く得ることが、勝つため
の必要条件であった時代が存在した。
しかし、現在は、誰にでも、地球の裏側で起こったことが、瞬時にわかるし、インターネットで、かなり多
くの情報量を得ることが可能である。つまり、早く得ること、多く得ることというアドバンテージは小さくなっ
てしまった。
それでは、情報に関して何が勝つためのアドバンテージとなったのであろうか。それは、情報を得たリー
ダーの整理能力と判断力であろう。情報量に関して言えば、今の時代、多すぎて困るくらいである。その中
には正確な情報のみならず、ジャンク情報も混在する。その中から正確かつ必要な情報を選択すること、
そして判断すること、これこそが今の時代のアドバンテージであろう。
一時代前、コンピュータが普及した頃、リーダー不要論が喧伝された。情報は全てコンピュータに入力、
記憶、計算されるのだから、判断もしてもらえるはずだ、という論理である。誰の目にも白黒はっきりしてい
ること、単純にパターン化できる情報については確かにリーダーはいなくても大丈夫であろう。
だが、高い次元の判断においては、白黒はっきりしない情報の方が圧倒的に多い。こちらが百パーセン
ト正解などということばかりなら楽なのだが、殆どは四分六、五分五分で、機械的に判断できることなど
皆無に等しい。
その上に圧倒的な情報量が存在する。その意味で、判断をし、意思決定することを職務とするリーダー
には、情報化の進展によって、皮肉なことに、昔のリーダー以上の能力が求められるようになったと言え
よう。 (文)
2013-11-30 13:01:36
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